屋久島(宮之浦岳)2011.5.09-10 前編

やくしま(みやのうらだけ)・1936m(鹿児島県)



屋久島は周囲約132km。火山島ではなく、大部分は花崗岩からなっている。中央部には日本百名山の一つで九州地方最高峰の宮之浦岳 (1,936m) がそびえるほか、他にも数多くの1,000m級の山々を有し、「洋上のアルプス」の呼び名がある。



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昨年7月、8年間の陸上生活を終え海上復帰し、その後の6ヶ月の乗船期間中に計画していた、2泊3日の屋久島縦走を実行に移すことになった。初めての単独屋久島縦走、どんなことになるか分からないが、とにかく挑戦してみようと思う。旅費節約のため行きは、高速船ではなく夕方発の貨物フェリーを利用し船で一泊して、朝、宮之浦港に到着する便に乗ることにする。フェリーの発着する鹿児島港へは、開通して間もない九州新幹線さくらを利用することにする。60リッターのザックは、あれもこれも持っていこうということで、多すぎる装備で少し重い・・・。




1日目(移動日 5/09) 萩〜 鹿児島港 〜 フェリー・ハイビスカス

14:01新山口駅発の新幹線さくら563号で新山口駅を出発する。1時間30分後鹿児島中央駅に到着、乗り換えの指宿線のホームへ急ぐ。指宿・枕崎線の列車にのり五位野駅で下車、谷山港のフェリー乗り場を目指し急ぎ足で歩いていると、親切な人が車で載せていってくれるというので、お言葉に甘える。その人の親戚の人が、この前乗船していた船が、入港した鹿児島の喜入石油基地に勤めているという。これも何かの縁かもしれないと思う。薩長同盟のおかげか・・・? とにかく感謝する。谷山港に到着するとザックを持った女性3名と、中年男性1名がフェリーへの乗船を待っていた。同じ考えの人がいるものだ。

18:00フェリーは、汽笛を鳴らし谷山港を出港する。二等船室は、絨毯を敷いたフロアーで、早い者勝ちで自分の寝場所を確保する。登山者らしき人はあまりいない。晩酌しながら弁当を食べ船旅気分を味わう。フェリー乗り場にいた中年男性と話をする。その人は自分の計画とは、反対のコース(安房経由・淀川登山口から)を登るらしい。服装も垢抜けている。それに引き換え俺は、そのままの普段着(ユニクロのTシャツとのズボン)である・・・。格好ばかりではないだろうが、もう少し稼いで服装を充実したいものだ・・・。フェリー・ハイビスカスは、種子島の西之浦港を経由して宮之浦港を目指す。




2日目(屋久島1日目 5/10) フェリー・ハイビスカス 〜 屋久島・宮之浦港 〜 白谷雲水峡 〜 楠川分かれ 〜 高塚小屋

歩行距離 9.1km
所要時間 9時間40分
累積標高差 (+) 1132m  (-) 437m
コース 白谷雲水峡08:50 → 白谷小屋 → 楠川別れ → 大株歩道入口 → 
ウイルソン株 → 高塚小屋18:30



早朝、フェリーの甲板から屋久島の八重山の姿が見る。これからまだ見ぬ屋久杉の姿を想像し、島の中央付近にそびえる高い山々を見ていると高揚感が増してくる。他の登山者らしき人も同じ思いのように見える。07:05フェリーは屋久島・宮之浦港に入港する。宮之浦港からの交通手段をあまり気にかけていなかったが、幸運にも08:00発のバスがあり白谷雲水峡に向かう。バスは断崖沿いの道を上って行く。ハンドル切り損なえば真っ逆さまだと思っているうちに、バスは高度を上げ、眼下には宮之浦港が見える。白谷雲水峡のバス停よりすぐ先の登山口に向かって歩く。前にはドイツ語らしきことばを話すカップルが歩いている。世界遺産である屋久島には、外国人の観光客が目立つ。白谷雲水峡の入口に入る。小さい渓谷沿いの階段を上っていく。大きな岩盤を越えると有名な飛流おとしがある。細い岩の間を水が飛ぶように落ちていく。

屋久島に来てまず最初に見た屋久スギ(樹齢1000年以上)は、二代大杉(樹高32m、周囲4.4m)だ、次に三本足杉。その名の通り3本の足があり、その下をくぐることができる。白谷小屋に向かって苔むした岩の道を進む。樹齢300年の二代杉・びびんこ杉を見る。名前は一般公募により命名された(鹿児島弁で親子が肩車をしている光景になぞらえる)。次は、三本槍杉(切り株の上に3本の杉が育った)。奉行杉(樹高24m、周囲8.5m)。登山道には、5m毎に赤い道標のテープが木々に巻いてある。テープが巻いて無ければ迷ってしまいそうだ。起伏の少ない登山道が続く。変形した杉やツガ等の樹木と苔むした岩。神秘的な世界が広がる。二代くぐり杉の下をくぐると初めて屋久シカを見る。ニホンジカに比べて体が小さい。もう一つのくぐり杉をくぐり、白谷山荘(定員40名)に到着する。白谷小屋の近くに太く真っ直ぐに伸びた七本杉がある。辻峠を通過。ここから左に少し登れば宮之浦岳が見える太鼓岩があるが、今回は行かないことにする。標識に従い楠川別れを目指す。辻の岩屋を通過しころから道は下りになる。

楠川別れに到着し、小休止する。60リッターのザックが肩に重く食い込み、体力を徐々に消耗していく。ここからは、伐採された杉を運搬するために作られたトロッコ道(今はその用途に使われていない)を安房川の渓谷沿いに歩いていく。単調で歩きにくい。右にバイオトイレを通り過ぎ、途中に「倒木更新」の三代杉、そそり立つ仁王杉を見る。屋久シカに何度も出会うようになる。下山中のたくさんの登山者群とすれ違う。縄文杉を見に行った人たちが今の時間帯に下山していくのだ。荒川登山口と縄文杉の間を往復す日帰りのハードコースだ。どの登山者のグループにもガイドらしき人が付いている。時間がだんだん過ぎていく。今日は新高塚小屋まで行く予定でいるが、体力的に無理か・・・。トレーニング不足だ。トロッコ道を抜け大株歩道に入る。午後から山に入らないようにと注意書きがあり、不安になる。重い足をあげ急登を上っていく。

何度も何度も休みながらようやくウイルソン株に達する。ウイルソン株は、1596年、豊臣秀吉の命令により切られたと言われる。胸高周囲13.8mもある。内部は広い空洞になっており祠がある。アメリカの科学者ウイルソン博士が発見し1914年、西洋文化圏に紹介したとのこと。登山者は、全て下山し、自分一人だけ。パワースポット・ウイルソン株を独り占めだ。新高塚小屋をめざし再び登り始める。足が重く10m登るごとに休み、なかなか前に進まない。大王杉(樹齢3000年、高さ24.7m、胸高周囲11.1m)までたどり着く。木製の階段が続き更に体力が奪われていく。合体木の夫婦杉(樹齢2000年と1500年)を見る。ついに縄文杉まで達する。日が暮れかけて周囲は薄暗くなっていく。縄文杉は、1966年発見されたもので、いろんな説があるが、樹齢は4000年以上といわれている。その大きさと存在感に圧倒される。間違いなく屋久島のシンボルだ。

18:30高塚小屋に到着する。今日中に新高塚小屋まで行く予定であったが、暗くなるので高塚小屋に泊まることにする。空いているだろうか。中に入ると下の段の2区画に8名程度、上段の片方の区画には、若い男性1名(ガイド?)と女性2名が居る。上の段のもうひとつの区画が空いていたので、その場所を確保する。体力消耗により力が残っておらず、上の段まで重いザックを上げるのに一苦労する。早速、今夜の夕食と明日の朝食用に白米を炊く。あ〜!面倒くせー。次は、簡単にできるアルファー米にしよう。山小屋には、遅くとも16:00には到着しなければと反省する。下の段の人たちは、早くもいびきをかいて眠りについている。上の段の若者3人は、話し込んでいる。焼酎の晩酌をしながら夕食を食べる。食欲がない。風邪をひいてしまったのだろうか・・・。ぐったりして眠りに就く。夜は少し冷える。







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(左上)屋久島行き全装備(1/3の物は不要であった。)
(左下)新幹線さくら563号で新山口駅を出発する。
(右上)フェリー・ハイビスカスは、早朝、屋久島・宮之浦港に入港する。
(右下)宮之浦港よりバスで白谷雲水峡に向かう。
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外国人にも人気がある。

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○白谷雲水峡入り口↑ ○白谷雲水峡・飛流おとし→
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二 代 大 杉
樹高32m, 胸高周囲4.4m, 標高730m
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三 本 足 杉
樹高24.2m, 胸高周囲 2.7m, 標高830m
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三 本 槍 杉
樹齢不明、樹高25m、胸高周囲2.7m
江戸時代の伐採で残った切り株の上に発芽した、
3本の杉が育った切り株更新の屋久杉。
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二代くぐり杉
この杉を抜けると楠川歩道、白谷小屋はもうすぐ。
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白谷雲水峡
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白谷山荘・楠川歩道
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標高825mに位置する、鉄筋コンクリート造りの山小屋。
白谷雲水峡切り口から2km弱、1時間ほど歩いたところにある。
40人収容。
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述の岩屋( 前)
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述の岩屋(後)
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七 本 杉
樹齢不詳、樹高18m、胸高周囲8.3m
白谷小屋に近い述峠に向かう道沿いに立つ、堂々
とした風格の屋久杉。上部が7本に分かれている。
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くぐり杉
倒木の上に生まれ育ったが、長い年月のうちに倒木
がなくなった。年齢不詳、胸高周囲3.1m。
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楠川分かれ
楠川歩道を抜ける。楠川分かれより大株歩道入口までの間、トロッコ道を行く。
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トロッコ道の途中にあるバイオトイレ
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三 代 杉
一代目の倒木の上に二代目が育ち、二代目の切り株の上に
三代目が育っている。それぞれ「倒木更新」「切株更新」など
と言われている。諸説があって明確ではないが、一代目の樹齢、
はおおよそ1200年、二代目が1000年、三代目は350年と
いわれている。
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仁 王 杉( 阿形 )
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人になれた屋久シカ

縄文杉のある大株歩道入り口-これから厳し急登が連続する。→
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丹沢山 ウイルソン株
1586年(天正14年)、牧村の五郎七が足場を組み、豊臣秀吉の命令により大坂城築城(京都の方広寺建立とも)の為に切られたといわれる。胸高周囲13.8m。ハーバード大学樹木園のための収集に、日本を訪れたアメリカの植物学者アーネスト・ヘンリー・ウィルソン(Ernest Henry Wilson) 博士により調査され、ソメイヨシノなど多くの桜などの収集とともに1914年に西洋文化圏に紹介され、後年この株の名前の由来となった。縄文杉発見(1966年)の52年前の調査である。

株の中には清水が湧き出ており、内部に祠がある。またこの杉は枝が多く、使い物にならなかった先端部分は、下の沢に放置され、今でも残っている。周囲は立ち入り禁止区域になっているが、内部には入ることができ、空を見上げると「ハート」型に見えるポイントがある。(Wikipediaより)
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ハート型に見える場所が分からない・・・。
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内部の祠
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大 王 杉
推定樹齢3000年、高さ24.7m、胸高周囲11.1mの巨木。
縄文杉に次ぐ次ぐ最大級の杉。
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夫 婦 杉
推定樹齢2000年の夫と、1500年の妻が中むつまじく手を
繋ぐ合体木。あやかるべきか?
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縄 文 杉
1966年、屋久町役場の観光課長だった岩川貞次により発見され広く紹介される。発見当初は大岩杉と呼ばれていた。「縄文杉」という名前の由来は、当時推定された樹齢が4,000年以上で縄文時代から生きていることから来たという説と、奔放にうねる幹の造形が縄文土器に似ているからという説がある。

1976年、九州大学工学部の真鍋大覚助教授により、周囲の樹木の年輪測定、幹周の大きさなどから、樹齢7,000年以上と推定され話題になった。しかし、その後の調査で古木の周囲を3本程度の若い木が融合して包み込んでいる合体木である可能性が浮上し、外側の若い木の部分の年代測定では樹齢約2,700年と判定された(芯部の古木は樹体保護のため未調査)。ただし、鹿児島大学農学部が縄文杉のパーオキシダーゼをアイソザイム分析した結果、縄文杉は合体木ではなく一つの木であることが証明されている。また、調査によって倒木更新の痕跡も発見されている。

また約7,300年前に鬼界カルデラから広がった幸屋火砕流によって、屋久島を含む九州南部諸島の大型植物は全滅したと考えられており、縄文杉の樹齢は古くとも4,000年以上はさかのぼらないとするのが定説になっている。一方で、後代に持ち込まれた記録の無いヤクシマザルなどの大型動物が現存していることから、屋久島全体が火砕流に飲み込まれたのではなく一部の動植物は生き延びたのではないかとする意見もある。 縄文杉を見るためには8-10時間程の登山を行う必要があるが、現在は保護のため杉の周りには立ち入ることはできない。 (Wikipediaより)
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高 塚 小 屋
屋久島の初日は、高塚小屋泊。体力消耗により18:30に到着
する。先客9名がいた。幸運にも二階の一部が空いていた。⇒
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屋久島(宮之浦岳)2011.5.10-13 後編に続く




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